ある場で「みなさん一人一人に伺います、あなたは善に生きていますか?それとも悪だと思いますか?」という質問に一人一人答えて行く場面があった。
正直、無茶な質問だな...と思いながら人の答えを一人一人聞いてみると全員「どちらか」に答えを振っていた。
こう言った問いに私はよく浦島太郎の例えで考えることがある。
カメにとっては恩人で善人である。ところが浦島太郎の手には釣り竿がある。カメを助けたその同じ人間が、魚を釣って食べている。
- カメにとっては恩人であり善人という存在
- 魚にとっては同胞を食う悪の存在
(彼の描写にはよく釣り竿が描かれている、察するに漁師か趣味の釣り師であるという仮定の話)
視点を変えると善悪はひっくり返る
人間は肉体を持って生きている。その肉体を維持するためには、何かを食べなくてはならない。肉を食べれば動物の命を奪う。野菜を食べても植物の命を奪う。これってつまり生きていく行為そのものが、何か別の存在の上に成り立つ。
「自分の肉体」という視点で見たら栄養を採って肉体に善いことをしている。しかし命を奪われる逆の立場からするときっと悪なんだろう。だから視点を変えたら善と悪というのは両方存在するし、両者否定することもできない。
極論に振らずに、「誰から見たあなたですか?」という問いに転換してみると良い。
「善い行いをしている」という認識だけでは、自分の行為のすべてを理解して見ることができない、ということ。
ベジタリアンやヴィーガンだって必ずしも善と言えるだろうか?もちろん肉を食べることと食べないことが同じだと言いたいわけじゃない。
皮肉な宴会
竜宮城に連れていってもらい、禁断の玉手箱をもらって開けてしまいお爺さんになる。
「カメ一匹を助けたくらいで善人になったつもりか...?」竜宮城で浦島太郎を歓待していた魚たちの正体は...。
そう考えると、なんとも皮肉な宴会だ...。
偽善とは何か?
誰かの善い行いを見た他者が「偽善者だ」と言ったりするあれだって、誰視点で見るかで考えるとどうだろう。偽善とは、善い行いをすることそのものではなく、自分の行為が誰かにとって悪になり得ることを見ようとしないことなんじゃないか。
まとめ
まとめると、肉体を持って生まれてきた以上、善と悪を両方背負わないと、生きていくことすらできないってことなんだろうね。